わしゃあ「エリーゼのために」が弾きたいんじゃ・・・

 10年くらい前だったでしょうか、うちの生徒のお父さんがレッスンについての相談に来られました。 「わし、エリーゼのためにが弾きたいんじゃが、無理じゃろうか・・・」

 そのお父さんは40代、全く音楽とも無縁に過ごし、ピアノも弾いたことない・・・という方です。 ただ、ずっと以前から「ピアノが弾けたら楽しいだろうな・・・」という憧れはあったそうです。 彼曰く、「まどろっこしい事はしとうない。」(要するに、教則本を一からコツコツ・・・と言うのは嫌だ、と言う意味です。)「はよー弾けるようになりたい。」との事でした。

 そんな事ができるかできないか、教えてくれ。できないのなら習う気はない、とおっしゃいます。 私は「できます。」と即答しました。 そして1つだけ条件を出しました。 「絶対に弾けるようになるまで、辞めないで下さい。」

 実はその数ヶ月前、「大人のためのピアノ教室」の渡辺圭子先生の講座を受けていたのです。 その講座は、まさに目から鱗・・・でした。そして是非私も、大人の方のレッスンを 積極的にやっていきたい・・・と思っていたのです。 「できます。」なんて言っても実は自信はなかったのですが、かなり不器用そうな(失礼・・・)そのお父さんのレッスンが成功したら、私は今後、大人の方のレッスンを自信を持ってやっていけるのでは・・・ そんな気がしたのです。

 使った教材は、渡辺先生の「初めてでも必ず弾ける、大人のためのピアノ教本」(今は「それはネコふんじゃったからはじまった」〈音楽の友社〉に名前を変えています)です。

 先生のお話では・・・以前近所に住むお医者さんがピアノを習いに来られ、基礎からきちんと・・・ と言うことで、バイエルを使ってレッスンしていたところ、とても真面目に通って来られていたその方が、ある日突然来られなくなり、 町でばったり会った時「ちょっと忙しくって・・・」とばつの悪そうな顔をされたんだそうです。 先生自身、本当にあのレッスンで良かったんだろうかと非常に悩まれ、その後試行錯誤の上 この教本を書かれた、との事でした。  

 基本的にはこの本1冊だけで、私なりにアレンジしながら進めていきました。 ちょうど2巻の最後の曲が「エリーゼ・・・」だったため、このお父さんのレッスンにも最適だったんです。  

 他の「ハノン」的な本も、エチュード類も使いません。 来られたらまずは「指の体操」からです。大人の方は、手がかなり凝り固まっていて、指の独立ができていません。 そのあたりをほぐす事からはじまって、手首の回転、肘の曲げ伸ばし、腕の関節の上下・・・とピアノを弾く事に 必要な関節をひとつひとつ動かしていきます。  

 エチュード的なことは、模倣練習と言うかたちで、簡単なことから私が弾く音形を真似して弾いてもらう・・・ と言う方法をとりました。 家でもちょっと気が向けば、こんな風な事をやってみてくださいね・・・くらいで・・・  

 もちろん全く楽譜の読めない方でしたが、簡単な理論をお教えしたものの、読譜練習と言うのは特にせず、 3つのドミソをお教えして、(Q&Aの「譜読みが楽にできるようになるには・・・?」に掲載) あとはドレミを楽譜上にカタカナで書いてもらいました。  

 もう1つ、私は子供達には「楽譜を目で追いながら弾く」(手を見ないで・・・)スタイルを徹底的にマスターしてもらうべく 日々奮闘(?)していますが、大人の方にはあえてそれをばっさり捨て、手を見てOK、覚え弾きOKとしました。  

 完全に子供達のレッスンとは視点を変え、このお父さんが要求されたように、 早く曲が弾けるようになる事を第一としています。  

 大人の方には続ける理由より、辞める理由の方がたくさんあるのです。 ピアノの練習よりも、やらなくちゃいけないことを、山ほど抱えていらっしゃるのです。 それに、辞めたい・・・とお母さんに訴えなくても、自分の口で辞めます、と言えばいつでも辞められるのです。 楽しくない事、面倒な事・・・を強要している時間はないのです。  

 ただ、そのあたりを譲歩したものの、ピアノの音には少々こだわりました。 大人になってからピアノを始めたからと言って、 汚い音でがんがんとピアノを叩かれたのでは、聞く人にも迷惑、 自分自身も幸せな気分にはなれません。 タッチポイント、脱力などはいつもうるさく言って、 自分の音をよく聞き、可能な限り心地よい良く響く音を出す努力はしてもらいました。  

 もう1つ、音楽の流れを止めないこと・・・・ つっかえつっかえの演奏は、同じく弾く人も聞く人も楽しめません。 その2つのことは、譲歩しませんでした。  

 もちろんいきなり「エリーゼ」を教えるのではなく、 その前にこの教材などからの抜粋で、簡単な曲を10曲くらいは弾いていただきました。  

 最初の曲は「ビッグベン」・・・ミ〜ド〜レ〜ソ〜〜・・・学校のチャイムのあの曲です。 最初の曲からいきなりペダルを教えます。 踏みかえペダルです。 ペダルがあることにより、どんなやさしい曲でも素敵に聞こえ、 弾く方にとっても、聞く方にとっても満足感があるからです。  

 あとは1曲ずつじっくりマスターしていきます。 そして、弾けるようになった曲もそれで終りにせず、必ず家でもレッスンでも弾き続けてもらいます。 ですから最初の「ビッグベン」は、何年も弾き続ける、と言うことになるのです。 何年も弾き続けていると、余裕ができて、少しずつ高度なことも要求できるようになります。  

 また過去の曲の復習は、エチュード的な要素も含みますし、もう1つ「練習していなくって、レッスンに行っても弾く曲がない。」 という状況を防ぎます。 レッスンに行きたくない・・・と言う理由は、ほとんどの場合これですから・・・  

 もちろん練習の必要性はお話しましたが、 「練習ができていなくっても、来るだけは来てくださいね。」と伝えました。 過去の曲の復習だけでも、充分に充実したレッスンはできるはずですし・・・

 それでも最初の1年を過ぎたあたりから、 いろいろな壁にぶち当たり、全然進歩がない時や、不機嫌な顔をして来られる時もありました。 (あとでこの方の奥様に聞いたところでは、おうちで「かあちゃん、わしピアノ辞めたい・・・」と訴えられたことが何度もあったとか・・・) ただ私は「エリーゼを完成させるまでは、辞めない約束ですよ。」と励ましました。 (自分自身も・・・)  

 さていよいよ「エリーゼ」に入ります。 このお父さんの場合、ここまで10曲ほどマスターするのに3年位かかりました。 「エリーゼ」はその後1年以上かかりました。 もちろんオリジナル通りの楽譜ですので・・・やはり中間部ではかなりてこずりました。 数小節ずつ区切り、根気良く、少しずつ進めていきました。 そうやってトータル4年以上かかり、念願の「エリーゼ」も完成しました。  

 その当時、そのお父さんの卒業を記念して、小さなサロンで他の大人の生徒さんにも出ていただいて、 小さなコンサートを開きました。 お父さんの演奏曲目は、もちろん「エリーゼのために」と、井上陽水「少年時代」、 私との連弾でサザンの「いとしのエリー」です。  

 体も大きく、肉付きの良い大きな手から奏でられるその音は、とてもほんわかやさしい音です。 決して達者な演奏ではありませんが、極度の緊張の中、猫背で懸命に弾かれるその演奏に、 私もその日来てくださっていたお客さまも皆感動したことは、言うまでもありません。  

 今、大人になってからピアノを始められる人がとても増えています。 初めてそういう生徒さんが来られて戸惑ってらっしゃる先生も多いと思います。  

 何かの参考になれば・・・とずいぶん前のことを思い出しながら書きました。